2012年5月21日月曜日


 (4) 音楽と人間


二つの質問について、お応えします。

1)「音楽について、どのように考えても」それが、妥当であるか、妥当でないかは、通常、議論の対象にはならないと思います。仮に、美学的観点から「妥当性判断」即ち、「真偽判断」が成り立つと考えても、時間をかけて現出する広がりであれば、各論点の収束は困難であり、むしろ、不要ではないかと思います。美学的観点は、皆さんもご存知のように、数学や論理学のような、「真偽判断」には馴染みにくいからです。

2)「音楽と人間」というテーマが中心となった書籍(A,B,C,D)、あるいは、中心ではないが、内容として入っている書籍(E)を紹介しましょう。ただ、僕の蔵書の中では、「現代音楽作家」による著作物の方が、質問者さんが望むテーマを多く盛り込んでいるようです。

A)ウィルヘルム・フルトヴェングラー 「音楽ノート」 (白水社)
B)アルブレヒト・ベッツ 「ハンス・アイスラー ―― 人と音楽」 (晶文社)
C)ピエール・ブーレーズ 「意志と偶然」 (法政大学出版局)
D)武満 徹 「樹の鏡、草原の鏡」 (新潮社)

E)ブルーノ・ワルター 「主題と変奏」 (白水社)


[付言]
A)フルトヴェングラーは、この評論集の中の、最初のテーマ「指揮の諸問題」で、次のようなことを述べている。
「統一感覚の欠如から生じる最悪の結果は、およそ演奏活動における、即興的な要素が抑圧され、制限されることである」。
他に、9つの批評文があるが、いずれも「音楽と人間」にかかわる、今日的問題を提供している。しかし、ドイツでの初版は1956年であることも一つの驚きといえる。

B)ハンス・アイスラーとは、20世紀音楽の巨星・アルノルト・シェーンベルクの高弟の一人。他の二人はアントン・ヴェーヴェルンとアルバン・ベルクであり、その中で、この書物の主人公一人が、他の二人のようなデビューと喝采を獲ち得ることが出来なかった。だが、哲学と文学を専攻する著者によれば、このアイスラーこそが、今世紀最大の作曲家だということになる。その理由の一つとして、音楽の社会的機能への考察があり、それによって、現代音楽における孤立からの解放を意図している、という。

C)この書籍一冊が、ベルギーの音楽学者・セレスタン・ドリエージュとの対話になっている。ジョン・ケージによって、一段と大胆になった、音楽の偶然性に対して、「無差別、無規律な偶然は、美学的立場から、拒否せざるを得ない」・・・・・・。これは、メシアンとの離別以来、P・ブーレーズが貫く古典主義の思想をより明確にすることを示している。

D)この随想集は、数多い短文で構成されている。その中の「能という一語」に興味深い一節がある。武満徹は「能舞台の空間は、無数の視覚的想像力によって満たされるべく構成された無の空間であり、自然の一部ではあるが、自然そのものではない。」と語っている。

E)ブルーノ・ワルターの回想録である。批評文から最も離れた、随想集と言えなくも無い。だが、かえって、交友関係などから生れる事実の中に、人間の問題が散見する。「私は」とワルターは言う。「本来のウィーン社交界からは遠ざかってきた。しかし、音楽に心酔したウィーン大市民の、サロンの一つとして、ヴィトゲンシュタイン邸のことは思い出さないわけにはいかない」。
館の主、カール・ヴィトゲンシュタインが、美術、音楽、文学など、広範囲に及ぶ芸術の愛好家であることに、多くの賛辞を記している。文中、ルトヴィヒというカールの弟が出てくるが、この人は、異彩の哲学者・ルトヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの叔父である。B・ワルターは、この哲学者のすぐ上の兄・パウル・ヴィトゲンシュタインが、片腕を失ったが、並外れた左手だけのピアニストであることを記している。
このピアニストのために作曲された、モーリス・ラヴェルの「ピアノ協奏曲ニ長調(左手のための)」について・・・・・・・・、これは、ラヴェルの「古典主義者としての本領」を見事に顕現した作品と言えよう。



[補足への応え]
不協和音について、あなたの言うとおりです。また、「現代音楽におけるコンセプチュアリズム」については、僕はP・ブーレーズの古典主義者としての態度に共感を覚えています。したがって、ストラヴィンスキー(新古典主義者)は、僕の好きな作曲家の一人です。補足ありがとうございました。


  • 編集日時:2012/1/22 13:01:37
  • 回答日時:2012/1/21 21:59:39

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