(5) 「キリスト教における赦し」 とは
十二使徒の一人、聖マタイが書いた福音書の三つの章(5,6,7章)に、有名な「山上の説教」(キリストによる)の場面があります。少し短かくまとめた記述としては、聖ルカが書いた福音書の第六章の中にあります。
キリスト教における「赦し」とは、「人間の罪に対する神の赦し」のことです。
神の一人子・キリストが、十字架に磔にされた、・・・・・・人間の罪を救うための贖い、と言われている。だから、神から赦される人間は、同じように、他の人を赦さなければならない。
最初の「山上の説教」に戻ります。「幸いなるかな、心の貧しき人、天国はその人のものなり」。昔は「山上の垂訓」と記してあった。文語体で始まるキリストの説教を、今日では易しい口語体で記してある。「○○をしなさい」、「○○をしてはならない」、が続いた後、最後に、「祈り」について偽善者のようであってはならないと忠告している。
「・・・・・・・偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。・・・・・・・・・・・・・・。こういう彼らは、すでに報いを得ている。だから、あなたが祈る時は、自分の部屋で戸を閉めて、父なる神に祈りなさい。そうすれば、隠れたあなたを見ておられる父が、必ず報いて下さる」。
その上で、キリストは、祈りの有り方と言葉を提示している。その中の一節、「・・・・・・・。我らが人を赦す如く、我らの罪を赦したまえ」。これは、祈りの中でも、「聖母マリアへの祈り」「栄唱」とともに、最も重要な一つ「主の祈り」の中にある言葉です。
キリスト教における「赦し」の基本的な意味は、ここにあると言えるでしょう。私たち人間は、敵をも赦さなければならない。・・・・もちろん、キリスト教徒がこの教えをどこまで実行できるか、かなり困難なことではあるが、しかし、「赦し」の意味はこれが全てです。
ゴルゴダの丘で十字架に磔にされたとき、キリストは、死刑執行人たちのために、次のような祈りを唱えた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのか、知らないのです」。
キリストは、死刑執行人に対して、赦すとは言っていない。父なる神に、祈っただけである。
秘蹟(Sacramentum)。これによって、眼に見えない恩恵と内的聖化が霊魂に与えられる、とイエス・キリストによって制定された、神からの内的祝福を表す外的しるしであるが、これ以上の神学的な意義は省略します。秘蹟は全部で七つあり、「洗礼」「堅信」「聖体」「赦し」「病者の塗油」「叙階」「婚姻」ですが、そのうちの一つ、「赦し」の秘蹟は神の代理人として、司祭が信者に与えます。その場合、「告解室」の中で司祭は普通名詞としての司祭職になりきり、個人としての表出は消失します。カトリック信徒は、告解の後で、神の赦しを、司祭職を通して得る事になります。
何かの映画で、「強い情熱を持った宗教家」が、彼の適切でない言説に従わなかった人物に、「あなたのことを赦します」という場面を観たことを思い出します。プロテスタントの中でも新しい派だということでしたが、僕はプロテスタントについては、よくわかりませんので、プロテスタントについて明確な断定は避けたいと思います。
「赦し」について、僕は、カトリックもプロテスタントも、それほどの違いはないと想像します。プロテスタントにはカトリックのような「秘蹟」の概念は無いでしょうが、「神の赦し」の意味は同じだと思います。
そしてそれ以上に、質問者が呈示した情景は、一般の人たちにも当てはめにくい例ではないでしょうか。
この質問の例にあった心理的な問題は、その取り上げかたと、掘り下げかたによって、哲学的なテーマが浮上する可能性はあるでしょう。しかし、キリスト教的な意味ではあり得ない事柄です。仮に、一人のキリスト教徒が質問に例示されたような、そして僕が見た映画のような、傲慢な人物になったとします。そのとき、その限りにおいて、彼はキリスト教的な人間とは言えないでしょう。
- 編集日時:2012/2/7 10:54:21
- 回答日時:2012/2/6 18:43:21
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